かながわ民際協力基金 助成団体インタビュー
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かながわ民際協力基金インタビューVOL.1

かながわ国際交流財団の「かながわ民際協力基金」による助成金を活かし、県内の在住外国人や世界中の人々へのさまざまな支援活動をするみなさんの思いを伺います。
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自らの経験を活かして広げていくイランの障害者を支える輪
特定非営利活動法人イランの障害者を支援するミントの会
パシャイ モハメッドさん 大澤照枝さん
(インタビュー実施日 2021年10月18日(月))


祖国イランの障害を持つすべての人に広めたい。障害者の「生きやすい環境創出」と「希望」。

自身が仕事中の事故で負った脊髄損傷で下半身不随の中、リハビリテーションセンターで出会った自分より障害の重い人の振る舞いに勇気づけられた。15年前車いす1台をイランの障害者に贈ることから始めたこの活動もJICAやかながわ国際交流財団の助成金を活かし今ではイランのバリアフリー(建物、公共道路)の改善活動にまで広がっています。


神奈川県秦野市でイランの障害者支援活動に15年もの間、携わってきたパシャイさん。この間、さまざまな人との出会いが活動を支えてきました。今回はパシャイさんとこの活動を最初の時期から支えてきた訪問看護師の大澤さんに活動への熱き想いや今後の展開について伺いました。(写真はパシャイさん〔右〕と大澤さん〔左〕)


パシャイさんには、自身の身に起こった仕事中の事故で脊髄損傷し下半身不随となる「宿命」を、生まれ故郷イランの障害者支援活動という「使命」に変えた不屈の魂を持つに至った経緯や支援の話を伺います。第一歩が中古の車いす、それから電動車いす、電動ベッド支援に広がり、それが「ミントの会」設立につながっていったお話しから、その活動が今ではイランのバリアフリー全般の普及活動や改良に、更にはピアカウンセラー*としても活躍できるようになるまでのお話しをお聞きしました。

また、活動当初から訪問看護師としてパシャイさんを支えてきた大澤さんに「ミントの会」設立の当初から現在に至るまでどのような活動をされてきたのか、また助成金をどのようなかたちで活かしているのか、そしてさらにはイランと日本の障害者による「国際交流」に至るまでを伺いました。

*ピアカウンセラー: ピアとは仲間、障害をもつ仲間の自立支援を行うのがピアカウンセラー。相談者一人ひとりの本来持っている力を引き出し、エンパワメント(個人や集団が本来持っている潜在能力を引き出し、湧き出させること)する役割の人。


パシャイさんご自身が障害者になられたことがイランの障害者支援の原動力になったということですが、予期せぬ仕事中の事故からイランの障害者支援を始めた思われたきっかけを伺います。


1991年、私は日本で土木設備工事、解体工事、道路、歩道工事を行う会社に勤めていました。17年前の2004年2月16日。私は会社の機械置き場で機械をおろす作業をしていましたが、その機械が転倒してしまいその時、660キロもある機械が私の体の上に落下しその瞬間、私は意識を失いました。意識不明の重体でした。東海大学病院で意識が戻るまで私は1か月以上経っていました。意識が戻って医師から言われたことを今でも鮮明に覚えています。「あなたの脊髄は損傷を受けています。もうずっと車いす生活になります。一命を取り留めただけでも幸運だと思ってください。これからあなたは、障害者としてのリハビリ訓練をしなくてはいけません」

この時のショックといったら簡単には言葉で言い表せません。右手は骨折していましたが私は自分の足がついているのか確認しました。足の感覚がまったくなかったからです。すると足はついているけれども、まったく感覚がない。いくら「足よ動け」と命令しても微動だにしないのです。脳の命令を伝える脊髄神経が切断されていたのです。目の前が真っ暗になりました。生きる希望さえも失いました。「こんな身体で生き続けたくない。死にたい」私は本当にそう思いました。

こんな状態の私が生きる希望を見出せるようになったのは、東海大学病院で入院する日々を100日過ごした後、神奈川リハビリテーション病院に転院した時でした。私はここでさまざまな「身体的障害」を負い必死で生活している多くの方々の「笑顔」を見ました。片腕のない人や両足のない人など私より遥かに重度の障害を負った方々が、さまざまな工夫をして必死に生活しようとしているその姿を見たとき「私は両足が動かないだけなのになぜ死のうとまで思ったのか?」と、自分が恥ずかしくなりました。「自分は車いすさえあれば動けるんだ。日常生活が送れるんだ」と自分に言い聞かせて、前向きに生きる気力を取り戻しました。

病院では5か月間ベッドに寝たきりでしたが、その後、車いすの生活が始まりました。最初は30分だけ、そして次は1時間。少しずつ動けるようになって8か月リハビリテーション病院にいました。当初の行動範囲は小さなものでしたが、車いすの生活にも慣れ病院内から街への外出もできるようになり8か月間のリハビリ期間を終了し退院しました(写真は病院で歩行訓練をしているところ)。

日常生活でもヘルパーさんや訪問看護師さん、その他たくさんの方々のお世話になりました。そんな中、現在ミントの会の事務局をやっていただいている大澤さんと出会います。大澤さんは、いろんな障害者のもとを看護師として訪問し私の家にも通っていただきました。


そのころ私には一つの不安がありました。日本にいるから入院やリハビリテーションが十分できて、そして最初の頃はバスで外出し、やがて車にも乗れるようになり、健常体だった頃のように車を運転して好きなところへどこへでも移動できるようになりました。

しかし私は日本にいる。祖国イランに帰った時、日本と同じような状態が望めるだろうか?――

私はその不安を解消するためにイランで障害を持つ方と連絡を取り合うことにしました。私の妹の住む地域に重度の身体障害者の方がおられ、幸い私は妹を通じその彼と連絡を取ることができ、電話で毎日、話しました。ある時、私は妹に、彼が実際どの程度の障害を持つ方なのか写真を撮って送ってほしいとお願いしました。写真がきてびっくりしました。写真の彼はベッドに寝たきりで開いた両腕も動かないようでした。

私は思いました。イランの彼のために何かできることをしたい―― 妹から送られてきた写真を私は知り合いたちに見せました。すると彼らは口々に「この人は自分の力で身動きができないから身体は骨と皮ばかりになっている。何か手伝えることはないか?」といいます。私は、自分も車いすの生活だが本当に多くの人に支えられて現在の生活ができるようになってきたことを振り返りつつ思いました。

「そうだ。彼は普通のベッドに寝ているから自分の力では身動きができない。彼の身体を支えることのできる電動ベッドがあったら体を動かせるようになるのではないか。電動ベッドがあれば自力で座ることもできるようになるのではないか。自分で座ることができれば考え方が前向きになるのではないか?」

そこで私は有志を集めて電動ベッドを購入してイランの彼のもとに送りました(写真は障害者の当初の姿〔左〕と電動ベッドを送った後の姿〔右〕)。しばらく経つと彼はリモコンを操作し自分で座れるようになり、気持ちも明るくなったようでした。彼は電話で「自分で座れるようになったよ」と嬉しそうに語るので「では次は何をして欲しい?」と聞くと、「家の外に出てみたい」とのことだったので再度、有志を集めて、今度はイランの彼に電動車いすを送りました。

電動車いすが届くと彼は電動ベッドから起き上がり、家族の介助で電動車いすに乗り家の外に行けるようになりました。電動車いすが届く前は彼に電話すると必ず家にいたのですが、電動車いすが届いてからはいつ電話しても彼の家族から「いま外出中です」「電動車いすが来てから朝から晩まで外出するようになった」といわれるようになりました。

私たちの電動ベッドや電動車いすを贈る活動が一人の寝たきりだったイランの重度障害者の気持ちを前向きにし、外出できるようになったことで彼の人生観まで良い方に変わりました。彼の家族から「日本から遠いイランにいる一人のずっと寝たきりの障害者を幸せにしてくれてありがとう」という言葉を聞いた時、私はとても嬉しかったです。

そこで今度は、訪問看護でお世話になっていた大澤さんとともに車いすなどの介護福祉機器をイランに贈る活動を本格的に始めました。車いすやベッドなどさまざまなところから寄付してもらい、それを必要とするイランの障害者に贈るために、コンテナ会社にお願いして送ってもらう活動を徐々に拡大していったのです(写真は神奈川県内の養護学校から寄付いただいた車いすをコンテナ船で運んで贈った際のもの)。

4年間こうした地道な活動を続けて行くうちに、イランでこの活動が次第に注目され始めて、介護福祉機器を希望するイランの障害者の数がますます増えていきました。大澤さんから「今まで私たちは個人のつながりでこうした支援活動に取り組んできたけど、これだけイランの障害者から要望があるのであれば、団体として登録し国や県の助成金を活用しながら運営母体をしっかりしたものにした方がよいだろう」という発案を受けて、2010年1月21日に「特定非営利活動法人イランの障害者を支援するミントの会」を立ち上げました。

これまで本当に多くの方々の協力で私たちは活動できていますが、イランの障害者の方々の笑顔がみられるようになり、その時に初めて、日本で仕事中の事故で障害を負った自分がやっていることが世の中に新しい価値を提供しているのだと思えるようになりました。


日本でパシャイさんが受けた医療福祉制度とイランの現状の制度ではどのような違いがありますか? また公共・民間施設や公共道路でのバリアフリーの施策の違いはどのようなものでしょう?


先ず現在の医療保険制度は、日本の場合、一般の方は3割負担ですが、イランの場合はその逆で、7割が個人負担になります。国の負担が3割で個人の負担が7割です。7割負担となると個人の負担が大きいですね。あと私が障害を負った17年前は、医療保険制度もここまで進んでいなかったし車いすもイランではなかなか手に入りませんでした。

私たちの当初の活動は、車いすを贈って、それから毎年、大澤さんや何人かのスタッフとともにイランに行って「訪問看護」などを教えていました。ただ時が経つにつれ車いすを贈っていても、家の中に車いすを置いたままであまり外に出ていない方がいるので「なぜ外に出ないのか?」と聞くと「歩道が狭くて車いすが使えない」とのことでした。私がイランに行ったときは必ず車で移動します。なにしろ広いので車でないとどこへも行けないんですね。実際に車道を走っていても歩道が障害者用に整備されていないので、車道を車いすで走行する方がたまにいます。スピードを出している車もあるので本当に危ない行為です。

かながわ国際交流財団から最初の助成金をいただいたときは、イランのバリアフリー普及活動に使いました。私は、この活動をするために2009年に日本でバリアフリーについて本格的に学び(写真参照)、その講座の修了証を在日イラン大使館でペルシャ語に翻訳してもらいました。それを持って2012年からはバリアフリーの専門家と一緒にイランに行って現地の施設や道路のバリアフリー化事業にも取り組み始めました。

私の故郷は、テヘランの近くのキャラジという都市ですが、当時は外に出たら段差、少し行ったらまた段差となっており、歩道を車いすでは通れない状態だったのです。現地の役所に言って「障害者のバリアフリーについて相談したい」と言っても「バリアフリーってなんですか?」と逆に質問されるような状況でした。そんな状態から日本の専門家や、もともと土木工事や道路工事の仕事としていた私が、一から現地の役所の人たちに「障害者向けバリアフリー」ついて日本でのケーススタディなどを交えながら根気よく教えていきました。また、実際のワークショップによりイランの役人に車いすに代わるがわる乗ってもらって、実際に障害を持ち車いすでの移動を余儀なくされている方々にとって現状の道路や施設の不便さを体験してもらいました。


特に役所の方への「バリアフリー」啓蒙普及活動で困ったことなどありましたか?


先ほどお話ししたように最初のころは「バリアフリー」についてまったく知識がない状態からの教育だったのですが、ワークショップを通じて車いすの実体験をして「障害者向けバリアフリー」の大切さを知ってもらった上で、行政として工事の発注や監理をしてもらうようになりました。ただ日本と同じように1年か2年でその担当が別の部署に異動になってしまうのですね。

そこで、どのようにしたら毎年役所に「バリアフリー」について教えに行き続けなくてもすむようになるか考えた末に取り組んだのが、現地の子どもたちに教えることです。現地の小学校に協力を仰ぎ小学校4年5年の子どもたちに「障害者とバリアフリー」について学んで貰いました。例えば、もしあなたが今から障害者になってしまったら生活の上でどんなことに困るかを体験してもらう為に、実際に目隠しをして歩いてもらい道路にどんな工夫がされればよいかをみんなで話しあってもらったり、車いすに乗ってもらい、外での段差がどれほど車いすの走行を阻害しているか体験してもらったりしました。


事務局を担っている大澤さんに伺います。大澤さんから見てイランでのミントの会の活動はどのように受け取られていますか? またイランの方々の日本という国への興味はどのようなものでしょう?


イランという国はNGOが入りにくい国なので、とても珍しがられていますし、「日本の文化やいろいろなことを知りたい」と日本の情報を欲しがっています。私たちの活動場所であるキャラジ市は首都テヘランから西に30キロくらいのところです。ちょうど日本で言えば首都の東京から40キロほどの距離の横浜市のような感じでしょうか。人口230万人ほどの都市ですが、そこを拠点に活動しています。ミントの会の障害者支援活動は、この地域では結構知られており、他の4~5カ所の都市から「障害者支援の活動動画」を見せてほしいとよく依頼が来ます。それだけ障害者支援の情報に飢えている感じがします。余談ですがイランでは日本のアニメワンピースが放映されていたり、ずいぶん前に日本で放映されていた「おしん」がブームになっていたりしているので、イランの人たちはとても親日的で情緒豊かです。精神構造が日本人に似ているのかもしれませんね。

活動している中で思いがけない不便を感じたこととして、イランでは写真をあまり自由に撮れないということがあります。例えば「バリアフリーの研修」の場合、警察やさまざまな役所に届け出が必要になります。学校で音の出る信号機の動画を見せるとき、音の出る信号機はイランにないがそれを教えてもよいかとか問題になることもあります。また「看護研修」だとイランの福祉省の方々にも同席していただかなければいけません。(写真:自宅で介護を受けているイランの障害者がミントの会から送られた介護エプロンを使って食事をしているところ)


イランの障害者支援のためにこれまでどのくらいの頻度でイランに行かれましたか? また、今までの支援活動の中で特に印象に残っていることはありますか?


10年以上、この支援活動を行なっていますが毎年イランに行きました。去年(2020年)と今年(2021年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で行けませんでしたが、もう12回行っていますね。滞在期間は10日から2週間ほどです。毎回、寝たきりだった脊髄損傷の障害を持つ家族のところに行っていましたが、私たちを本当の家族のように待っていてくれます。それこそ寝たきりだった方がベッドから降りたり、自分でさまざまな工夫をして運動もできるようになったりしていて、日常生活を取り戻しているのが本当に嬉しいです。

最初は動けなかった人が徐々に自分でできることが増えていくようになる過程は、活動を継続していく中で確認できることです。以前やったことが良かったのかどうかを評価するには時間がかかるので、活動を継続していくことが大切だと思っています。


これまで地道に続けられているミントの会の障害者支援活動はたくさんの方に知っていただければ更に普通の日本人の方々にも浸透し活動が拡大していくと思います。助成金を利用した実例があれば教えてください。


一例ですが、かながわ国際交流財団の助成金で2021年10月22日(金)に秦野市の公民館で開催した「障害者のためのエプロンづくり」(写真参照)をご紹介します。

参加者は今までミントの会を支援してくださっているボランティアスタッフとパシャイさん、そして私が各自ミシンを持ち寄り、水を通しにくい布で障害者の方にも装着しやすいデザインを考えました。食事の時にはエプロンの下の部分にポケットをつけて下に食物が落ちないようにして、装着する際もヒモではなく首の後ろでワンタッチでとめられるように工夫をしています。全部で50枚ほど作りまして秦野市の子ども施設や障害児施設、高齢者介護施設に配りました。他にもさまざまな活動をしています。

実際に参加している方には、本当に楽しんで参加いただいています。イラン人の参加者は、女性が被るヒジャーブ(スカーフ)を各家庭で手作りした経験を生かして作っています(ヒジャーブの布は実は品質が高い日本製がイランで使われていたことも知りました)。

神奈川県内でのさまざまなイベントやフェスティバルに参加していますが、活動の写真をいろいろな方に見ていただくとイランのイメージがすごく変わりましたという方が多いですね。テレビ等の情報だけだとイランにはどんな人がいるのかわからない国のようなイメージがあったり、戦争をやっている国ではないかなど怖いイメージで捉えられている方が多いです。


大澤さんは例えば海外でのボランティア活動などを志すなど、もともと海外志向があってパシャイさんとの出会いをきっかけに海外での活動をされるようになったのですか?


いえ違います。神奈川県内で看護師として訪問看護の仕事でパシャイさんと出会いました。パシャイさんはイランの人を助けるだけでなく、日本の障害者に対しても、自らの経験を踏まえて、こういう場合はこういう福祉制度があるので使えるのではないかといったアドバイス(例えば、ご自身が車の免許を取った時の経験から障害者支援助成制度を利用できるのでは、といったことなど)や、こんな道具があるから使えるのでは?というように、常に人のことを考えている方だと思いました。

自分の体験を人に活かしてもらおうという、言わばピアカウンセラーですね。パシャイさんはとにかくエネルギッシュで、ピアサポーターでありバリアフリーの当事者リーダーであり、こういう事をお金のためにやるのではなく「自分にできることはみんなに伝えたい」「当事者の方々の力を引き出したい」という気持ちがとても強い方だと思います。それが「ミントの会」のベースにもなっています。


民際協力基金を含め、助成金で行っている事業について教えてください。


JICA横浜の「はじめの一歩プロジェクト」を受け、2012年から3年間民際協力基金の助成をいただき、また「神奈川県ボランタリー活動奨励賞」を受賞したことで、できるだけ神奈川県内の助成金に申請するように自分でさまざまな助成制度を調べました。ちょうど2020年10月に、日本国内でマスクが足りないということで、かながわ国際交流財団から新型コロナウイルス対策緊急支援事業の助成金をいただき、日本でマスクを300枚作りました、さらにイランでも1,200枚ほどをつくり障害者に贈りました。

日本国内は、かながわ国際交流財団のみの助成金となりますが、海外の方はJICAの「イランのバリアフリー支援事業」を行っています。今後、力を入れていきたい事業としては、実際にパシャイさんがお世話になった神奈川リハビリテーション病院をモデルに「ミントリハビリテーションセンター」を作りたいと思います。これについてはパシャイさんからその構想を詳しく話してもらおうと思いますが、地域リハビリテーションセンターで理学療法士をされている方に熱心に推進役になっていただき、すでにパンフレットもできていますし、日本とイランでこれからPRしていく予定です。


パシャイさん、「ミントリハビリテーションセンター」の構想や内容について教えてください。


今までイランの障害者支援のためにイランに行くたびに多くの支援者の方にお世話になっており、その都度連絡を取り合ってリハビリテーションを教える機会をいただいていました。これからは、イランに活動の拠点を作りたいと考えています。日本では、何の制約もなく障害者の方が家の外にでることができますが、イランではそれができません。イランの障害者は、何か目的がないと外出ができないのです。先ほどの大澤さんの話にもありましたが、法律でいろいろなことがガチガチに定められていて海外からの援助が本当に入りにくいのです。イラン人として私が「イランの障害者支援活動」をしていてもまだまだ課題は多いのです。

そこで、障害者の外出支援のために「ミントリハビリテーションセンター」をイランに作り、そこを活動の拠点にしたいと考えています。障害を持つ方々に週に1~2回、そこに来ていただいてリハビリ訓練をしてもらうと共に障害者同士のコミュニケーションの場を提供したいと思います。健常者の方にはなかなか理解してもらえませんが、同じ障害を持っている者同士で自分の身体の悩み(こういう悩みは一般の方には恥ずかしくて話せないものもありますので)などを気軽に話せるようなコミュニケーションの場はとても大切です。

また日本のことを例にすると、特に障害者のための福祉制度や法律を知っているのといないのとでは大きな違いがあります。例えば私が日本で車の免許をとるときに4回試験受けても受からなかったので、では自動車教習所に通おうと思うとお金がたくさんかかります。それを10万円まで補助金が出る福祉制度があることを知って、教習所に通うことができたので試験に合格して免許を手にすることができました。また他にも障害者に関する法律や福祉制度について、私は多くの体験を通じさまざまな知識を得ることができました。イランでも同じようにイランで通用する法律や今まで日本で学んだ福祉制度の知識を応用できないかと考えています。

私が負った障害は脊髄損傷ですが、車の運転には車いすから車に乗り移る「乗り移り」ができなければいけませんが、この「乗り移り」が簡単ではありません。車の乗り移りを訓練する場所がイランにも必要と考えています。私はこれができるようになって本当に今は自由にどこにでも自分の車で外出することができるようになりました。障害者が、不便を感じずに日常生活を送ることができるように、訓練できる場が必要不可欠ですね。


どうもありがとうございました。


ミントの会主催者のパシャイ モハメッドさん、事務局で現場を支える大澤さんのお二人のイランの障害者支援に対する熱い思いが伝わるインタビューとなりました。これからもイランの障害者と日本を結ぶ国際交流事業を通じて一人でも多くの方にその存在を知っていただきたいと思います。

【かながわ民際協力基金助成事業による活動紹介】

ミントの会では、第53期かながわ民際協力基金を活用して、多文化共生カレンダーの製作に加え、障害者が使用しやすいエプロンづくり、多文化共生(ペルシャ)料理講座、ユニバーサルスポーツ(ボッチャ)体験などのイベントを実施しています。


  • 制作されたカレンダーの発送作業

  • ユニバーサルスポーツ(ボッチャ)体験

  • 多文化共生(ペルシャ)料理講座
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